絶対に一人部屋の寮がある大学を受けると決意して、私はコーヒーの紙カップを溢れない程度に握った。同じ部屋に住んでる子は付き合ってみれば良いとこもある子ではあるのだが、なにせルール破りが好きな子だった。門限は守らないし、食事当番はサボってしまい結局他の人からルームメイトなんだからと仕事を私が押し付けられる。授業から帰ってみたら部屋のベットに男の子といたこともあった。女子寮なのに。住んでいるところは女子寮なのにだ。私が用事があって両親の所へ行った時には朝から男の子を連れ込んでいたようで、運悪くシャワールームで隣の部屋の女の子が鉢合わせてしまったらしい。そのおかげで帰ってくるなり隣の部屋の子たちに関係ないはずの私まで文句を言われる始末だった。っていうか、シャワールーム使うなよ彼氏。っていうか、あの子も彼氏が使うのを止めるべきだ。


アメリカ人の友達であるモニカと食堂でコーヒー片手に座っていると、キャーキャーと黄色い声が遠くから聞こえてきた。なにかイベントでも近かったろうか。明日の発表に使うスピーチの原稿の最終チェックをしている私達は気にせずにしばらくは黙々と作業を続けていた。だけど、私より早く終わったモニカは気になったのか声の方へと顔を向ける。私もさっきから騒がしくて気になっていたのでつられて顔を向けた。見れば、なるほどと納得した。


「王子だったか。」モニカは残念そうに再び原稿に向った。私も興味が失せたので原稿に再び向う。この学校には王子がいる。王子といっても本当に王子なのかどうかは本人からは聞いたわけでもなく他人から聞いたので真偽は定かではないけれど。なんというか、王子ことクリフォード・D・ルイスは鼻が高い人である。外見の鼻も高いのだが、内面の鼻も高い。いつも何事も素早く計算してる感じがあるところが私は苦手だった。実際、数学の授業で私が1問解いてるうちに彼は10問解き終わったくらい頭の回転は速い。先生は彼のことをすこぶる褒めてた。対して私はというとモニカにあまりにも悲惨な数学能力を嘆かれていた。ん?いや待てよ。計算高さと数学は関係ないのか?まぁとにかく、それくらい計算が速いってことだ。有り難いことに彼は彼と同じくお金持ちな生徒か気の合う生徒としか付き合ってないようなので、庶民の私が授業以外で彼を目にする機会は少なかった。


陽が暮れた頃に原稿はなんとかモニカも納得するものがようやく書けた。通学のモニカはキュートなママがこれまたキュートな車で迎えにきて帰ってしまった。私も学校の敷地内にある寮へと憂鬱気味に向う。今日こそはルームメイトのトラブルに巻き込まれず平穏に過ごしたい。本当はモニカのように通学が良いのだが、あいにく両親は遠く離れたウィーンにいるので実現不可能に近い。どうして娘を日本ではなくアメリカへ置いていったのか未だに謎だが、両親はまたアメリカで仕事をするつもりだから私を日本に帰さなかったのかもしれない。別に友達がいないわけでもない。彼氏はいないが。先生も熱心だし、クラスメイトも食堂のおばちゃん達も親切だ。ホームシックではない。ただ、ルームメイトが困ったちゃんなのだ。帰りたくないなんて、結婚して倦怠期が来た若いサラリーマンみたいな心境だ。そんな心境がアメリカの寮で味わえるとは夢にも思わなかった。が、今現在ちゃくちゃくと進行している現実であるには違いなかった。本当に帰りたくない。だが他に行くあてもないし、やっぱり寮に帰るしかないのだ。


「おい。」私がぶつぶつ文句を言いながら歩いていると声をかけられた。振り返って声の主を見上げれば、我が校の王子がそこにいた。ひっ、と思わず息をのむ。私の驚きように王子は機嫌を損ねた顔をした。だが、苦手な人からいきなり声をかけられて驚かない人もいないだろう。それに、ただでさえ彼は目つきが悪くて近づき難いのに、陽が暮れた今では昼間の明るい太陽の下で見るよりも怖さが増していてマフィアにでも脅されてる気分になるんだから仕方ないと思う。ともかく敵意や戦意がないことを見せねば!と、私は低姿勢で彼に対応することにした。少々情けない気もするが、これが世界で生きていく平凡な日本人なら選ぶ選択肢であると思う。「あの、私に何かご用でしょうか。」「いや、用ってほどでもないんだけどな。」王子は言葉を濁した。彼の右手は腰にあてたり太もも辺りで拳を握ったりと忙しなく動く。拳が握られる度に私はいつその握られた拳で殴りかかられるのかと冷や汗を流した。放課後なので、あまり校舎に残ってる人はおらず殺るなら絶好の時間だった。明日の朝日は拝めないかもしれない、そう覚悟した時に王子は「お前、だろ?」と確認してきた。いよいよ、その時だろうか。どうせ殴るなら一発で失神するくらいの勢いで殴って欲しいと願いつつ頷く。すると王子は黙って顎に手をあてて何やら考えはじめた。


どれくらい時が経ったかわからないが、王子は結論に至ったのか顎から手を離してこちらに顔を向けた。出来れば平和的な解決を図りたいものである。本当に暴力だけは勘弁して欲しい。「お前とお前のルームメイトの部屋に俺の知り合いが行っている。」簡潔にそう言うと、そこらへんにあった椅子を引き寄せて王子は座った。「つまり、今はまだ真っ最中だから帰らない方が無難だな。」王子の言葉に開いた口が塞がらなかった。まさかルームメイトの彼氏が王子の知り合いだったとは。そして、またルームメイトが連れ込んでいることにも。隣にも騒がれ私にも苦情がきたというのに、まだ懲りていないのか。本当に嫌だ。日本に帰りたい。両親の元に帰りたい。オー!ジーザス!あまりのショックにその場に座り込むと自分の意思とは無関係に内側から熱いものがこみ上がった。関係ない王子の前で悪いと思いつつも溢れてくる涙を止めることはできなかった。「あ、お、おい!泣くんじゃねぇよ!」王子は焦ってきょろきょろしたけど、そっとハンカチを差し出してくれた。王子のハンカチはどこかで嗅いだ良い香りがした。しばらく一人でグズグズ泣き、その間に王子に何かワーワー言われながらも私は落ち着きを取り戻した。ぐしゃぐしゃになってしまった借りたハンカチを見つめて途方に暮れていると、王子は「仕方ねぇな!」と私の手を引っ張る。「仕方ねぇから今夜一晩俺の家に招待してやる!」王子が笑ってそう言うものだから、私は頷いてしまった。携帯の留守電には“今夜は部屋に帰らない”というルームメイトからの伝言があったのも気づかずに。